「精液の中に、精子が確認できませんでした」
医師からそう告げられた瞬間。
奥様は、隣に座っていたご主人の顔を見ることができなかったそうです。
ご主人も何も言いませんでした。
結婚して4年。
「そろそろ子ども欲しいね」
そんな、ごく普通の会話から始まった妊活でした。
まさか自分たちが、「無精子症」という言葉と向き合うことになるとは、二人とも考えていませんでした。
この日からご夫婦は、「無精子症でも子どもを持つことはできるのか」「治療をしても精子が見つからなかったらどうするのか」、そして「第三者から精子提供を受けて子どもを授かるという選択を、自分たちは受け入れられるのか」という問題と向き合うことになります。
※本記事は、無精子症・男性不妊をきっかけに精子提供を検討される方から寄せられるご相談や一般的な経過を参考に、個人が特定されないよう内容を再構成した事例です。
今回のご相談
- ご相談者:30代ご夫婦
- ご相談のきっかけ:夫が精液検査で無精子症と診断
- これまでの経過:精液検査・再検査を経て、男性不妊について専門医へ相談
- ご相談時の状況:夫自身の精子による妊娠が難しい可能性について説明を受け、夫婦で第三者からの精子提供について調べ始めた
- ご希望:夫婦双方が納得できる形で、今後の選択肢を考えたい
「妊娠できない原因は私にある」と妻は思っていた
妊活を始めても、なかなか妊娠しない。
最初に病院へ行ったのは奥様でした。
「年齢かな」「排卵のタイミングかな」「私の身体に何かあるのかな」
そう思っていたそうです。
検査を受けました。排卵日も確認しました。タイミングを取りました。
毎月、生理予定日が近づくと期待する。そして、生理が来る。その繰り返しでした。
「またダメだった」
ご主人に伝えると、「また来月やればいいじゃん」といつもそう言ってくれました。
だから奥様は、自分の身体に原因があるのだと思っていました。
「一度、ご主人も検査してみましょう」
ある日の診察で、医師から言われました。
「一度、ご主人も検査してみましょう」
奥様から聞いたご主人は、「俺?」と少し驚いたそうです。
それでも、「まあ、一応やっておくか」という程度でした。自分に大きな問題があるとは考えていませんでした。
そして、精液検査を受けました。
精液検査で「精子がいない」と言われた
結果を聞くため、二人で診察室に入りました。
医師から言われました。
「今回の検査では、精子が確認できませんでした」
ご主人は一瞬、意味が分からなかったそうです。
「少ないってことですか?」
聞き返しました。
「少ないということではなく、今回の検査では確認できなかったということです」
ご主人は黙りました。奥様も何を聞けばいいのか分かりませんでした。
その後、再度検査を受けました。結果は同じでした。
無精子症。
それまで二人の生活には存在しなかった言葉が、突然、自分たち夫婦の問題になりました。
※精液検査の数値の見方については精液検査の見方|精子濃度・運動率・正常形態率の基準値で解説しています。
無精子症と診断されても、すぐに「子どもを持てない」と決まるわけではありません
無精子症とは、精液中に精子が確認できない状態をいいます。
ただし、精液中に精子が確認できないことと、体内に精子がまったく存在しないことは同じではありません。
無精子症には原因や状態の違いがあります。大きく「閉塞性無精子症」と「非閉塞性無精子症」に分けられ、状態によって検査や治療方針も異なります。違いについては閉塞性無精子症(OA)と非閉塞性無精子症(NOA)の違いをご覧ください。
そのため、無精子症を指摘された場合には、まず男性不妊を扱う専門の医療機関で詳しく調べることが重要です。
状態によってはTESE(精巣内精子採取術)やmicro-TESE(顕微鏡下精巣内精子採取術)など、精巣から精子を探す方法が検討される場合もあります。くわしくはTESE/Micro-TESE(精巣内精子採取術)とは?をご参照ください。
無精子症と診断された時点で、「もう子どもを持てない」と結論づける必要はありません。
夫の検索履歴が「無精子症」ばかりになった
診断を受けてから、ご主人は毎晩のようにスマートフォンを見るようになりました。
検索していたのは、「無精子症 子供」「無精子症 妊娠」「無精子症 治療」「無精子症 TESE」「micro-TESE 精子 見つからない」――そんな言葉ばかりでした。
奥様から、「今日はもう見るのやめたら?」と言われても、「もうちょっとだけ」と言って検索していたそうです。
調べれば安心できると思っていました。
でも実際には逆でした。調べれば調べるほど、「もし自分の精子が見つからなかったら」という不安が大きくなっていきました。
「もし俺の精子が見つからなかったら、別れた方がいい?」
ある夜。ご主人が突然、奥様に聞きました。
「もし俺の精子が見つからなかったら、別れた方がいい?」
奥様は意味が分かりませんでした。
「なんでそうなるの?」
「だって」
少し黙ってから、ご主人が言いました。
「俺じゃなかったら、普通に子どもできてたかもしれないじゃん」
奥様は、「そんなこと言わないで」と答えました。
でも、そのとき初めて気づいたそうです。ご主人は無精子症という診断を、単なる病気としてではなく、「自分のせいで妻を母親にしてあげられない」という罪悪感として受け止めていたことに。
病院から帰る車の中で夫が言った「ごめんな」
病院から帰る車の中。ご主人はほとんど話しませんでした。奥様も何を話せばいいのか分かりませんでした。
赤信号で車が止まりました。前を向いたまま、ご主人が言いました。
「ごめんな」
「何が?」
「子ども欲しかっただろ」
奥様は答えました。
「欲しいよ」
少し間を置いて、「でも、あなたと欲しいんだよ」と言いました。
ご主人は何も答えませんでした。信号が青になりました。そのまま家まで帰りました。
それでも、望んでいた結果にはならなかった
その後、ご夫婦は専門医から説明を受けながら、自分たちに可能な方法について検討しました。
「まだ可能性があるなら、自分たちの精子と卵子で子どもを授かりたい」
二人とも、そう考えていました。
しかし、ご夫婦が望んでいた結果にはなりませんでした。夫自身の精子を使って妊娠を目指すことが難しい。その現実を、二人は受け止めなければならなくなりました。
奥様は泣きました。ご主人は、その場では泣かなかったそうです。
「仕方ないよ」「できることはやったから」
そう言っていました。
夜中のリビングで、夫が初めて泣いた
数日後。夜中に奥様が目を覚ますと、ご主人が隣にいませんでした。
リビングへ行くと、電気もつけず、一人でソファに座っていました。
「どうしたの?」
声をかけました。ご主人はしばらく黙っていました。
そして、「俺、子ども欲しかったんだな」と言いました。
さらに、「自分の子どもの顔、見てみたかったな」と。
そこで初めて泣いたそうです。
奥様も隣に座りました。その夜は、「これからどうする?」という話はしませんでした。二人で泣いただけだったそうです。
夫婦から「子ども」という言葉が消えた
それからしばらく、ご夫婦は妊活を止めました。病院の話もしなくなりました。子どもの話もしなくなりました。
友人から届く出産報告。街で見かける親子。スーパーで子どもを抱っこしている父親。
以前なら何とも思わなかったものが、少しずつ重くなっていったそうです。
でも、お互いにそのことは言いませんでした。「子ども」という言葉そのものを避けるようになっていました。
※血のつながりをどう受け止めるかについては【男性不妊】血の繋がりか、育てる絆かもあわせてご覧ください。
妻が見つけた「精子提供」という選択肢
そんな時期。奥様が一人でインターネットを見ていて知ったのが、第三者から精子提供を受けて妊娠を目指すという選択肢でした。
最初は、ご主人に言えませんでした。
精子提供を提案することが、「あなたの精子では無理だから」と夫を否定しているように聞こえるのではないか。そう思ったからです。
数日迷いました。そして、ある夜。スマートフォンの画面を見せながら、「こういう方法もあるみたい」と話しました。
ご主人は黙って画面を見ていました。しばらくして、最初に出た言葉は、「それって……俺の子じゃないよね」でした。
「他人の精子で生まれた子を、本当に愛せるのか」
精子提供について調べ始めると、ご主人から次々に疑問が出ました。
「血がつながってなくても父親なの?」「俺に全然似てなかったら?」「子どもには言うの?」「いつ言うの?」「子どもがドナーに会いたいと言ったら?」「提供した人は、どういう存在になるの?」「俺の親にはどう説明する?」
そして最後に、「他人の精子で生まれた子を、本当に自分の子として愛せるのかな」と言いました。
奥様にも答えはありませんでした。だから、その日は結論を出しませんでした。
※お子さんへの伝え方については精子提供で生まれた子どもにいつ・どう伝えるか、出自の論点については「出自を知る権利」とは?で整理しています。
「私はあなたの遺伝子が欲しくて結婚したんじゃない」
何度か話し合ったあと。奥様がご主人に言いました。
「私、考えたんだけど」「あなたの遺伝子が欲しくて結婚したわけじゃないんだよね」
ご主人は黙って聞いていました。
「私は、あなたと子育てしたいんだと思う」「子どもが熱出したら二人で病院行って」「保育園のお迎えして」「運動会行って」「一緒に怒ったり笑ったりして」「そういう家族になりたい」
ご主人は、すぐには答えませんでした。
でも、この話をしてから少しずつ、二人で精子提供について調べるようになりました。
SNSで精子ドナーを探す方法も調べた
「精子提供」「精子ドナー」「精子提供 ドナー 探し方」――さまざまな言葉で検索しました。
SNS上で個人の精子提供者を探す方法があることも知りました。
しかし、ご夫婦には不安が残りました。
プロフィールは本当なのか。本人確認はされているのか。感染症について何を確認すればいいのか。検査結果を確認できるのか。何人くらいに提供しているのか。提供後の関係はどうなるのか。将来、子どもがドナーについて知りたいと言った場合はどうなるのか。
ご主人が言いました。
「妊娠できれば誰でもいいっていう選び方だけはしたくない」
※個人間でのやり取りに指摘されているリスクはSNSでの精子提供が危険な5つの理由にまとめています。
「できれば夫に似たドナーがいい」
ドナーについて具体的に考え始めた頃。奥様が最初に希望したのは、「できれば夫に似ている人」でした。
血液型。年齢。身長。体格。顔立ちや雰囲気。学歴。職業。健康状態。
二人で条件を書き出しました。そして、候補となるドナーについて考えるようになりました。
ドナーのプロフィールを見て、夫の手が止まった
二人でドナーについて確認していたときのことです。奥様が画面をスクロールしていました。
年齢。身長。血液型。学歴。職業。
その横で、ご主人はほとんど話しませんでした。
途中で、ご主人が言いました。
「なんか変な感じだな」
奥様が画面から目を離しました。
「何が?」
しばらく黙ってから、「自分の代わりになる男を探してるみたいで」と言いました。
奥様は何も言わず、画面を閉じました。その日はドナーを選びませんでした。
ドナー選びで、本当に大切だったもの
その後、二人でもう一度話しました。
年齢。身長。血液型。学歴。職業。もちろん希望はあります。でも、本当に大切なのはそこだけなのか。
二人が考えるようになったのは、「将来、この人から提供を受けたことを、子どもに対して後ろめたく思わないか」ということでした。
そこでご夫婦は、プロフィール上の条件だけではなく、次のような点も事前に確認したい項目として整理していきました。
- 本人確認について
- 感染症検査について
- 精液検査について
- 健康状態について
- 提供に対する本人の考え
- 提供回数についての考え方
- 提供後の連絡や関係性
- 生まれてくる子どもの出自についての考え方
どこまで確認できるのか。どのような情報が提示されるのか。何を夫婦として譲れない条件にするのか。
一つずつ確認したうえで判断したい。条件の良さだけでドナーを決めるのではなく、夫婦が納得できる形で提供を受けたい。それが二人の共通した希望になりました。
※ドナー選びで確認したい項目は精子提供のドナーはどう選ぶ?民間バンクで確認できる情報と選び方でも整理しています。
夫が出した、たった一つの条件
ドナーについて具体的に考えるようになった頃。ご主人から奥様に、一つだけお願いがありました。
「俺だけ抜きで決めないでほしい」
というものでした。
奥様は最初からそのつもりでした。
ドナーについて二人で考える。分からないことがあれば二人で確認する。どちらか一方でも納得できなければ進まない。
精子提供を、「妻が妊娠するための問題」ではなく、「二人で子どもを迎えるための問題」として考えることにしました。
「この人の子どもを育てる、とは考えないことにした」
ある日、ご主人が言いました。
「俺、考え方変えることにした」
「何を?」
「この人の子どもを俺が育てるって考えると、多分ずっと引っかかると思う」
少し間がありました。
「俺たちが子どもを迎えるために、この人に力を貸してもらう」「そう考えることにした」
そして、「だったら俺、父親になれる気がする」と言いました。
奥様は、「私もそう思ってる」と答えました。
「血がつながっていなくても父親になれるのか」
最初に精子提供という言葉を知った頃。ご主人が最も悩んでいたのは、「自分と血のつながっていない子どもを愛せるのか」ということでした。
その答えが完全に出たわけではありません。
ただ、ご主人は最後にこんな話をされました。
「もし子どもが生まれたら」「夜泣きしたとき起きるのも俺ですよね」「保育園に送るのも俺だろうし」「熱出したら病院連れて行くし」「自転車の練習もするだろうし」「運動会にも行く」
そして少し笑って、「そう考えると、父親って血だけなのかなって思うようになりました」と。
無精子症と診断されたばかりの方へ
もし今、「夫が無精子症と診断された」「精液検査で精子が確認できなかった」という状況でしたら、最初から精子提供を考える必要はありません。
まずは男性不妊を扱う専門の医療機関で、原因や状態について詳しく調べてもらうことが大切です。状態によってはTESE・micro-TESEなどが検討される場合もあります。
そして、医学的な選択肢について十分な説明を受けてください。
その先で、「夫自身の精子による妊娠が難しい」という状況になったとき。初めて、その後について夫婦で考えればいいのです。
※診断直後の考え方は無精子症と診断されたら|原因・分類・治療と精子提供という選択肢にまとめています。
無精子症で精子が見つからなかった場合の選択肢
その後の選択は、ご夫婦によって異なります。
第三者からの精子提供について考える方。養子縁組や里親制度について調べる方。夫婦二人の人生を選択する方。
どれが正解ということではありません。選択肢の整理は無精子症と診断されたら|原因・分類・治療と精子提供という選択肢もご参考ください。
そして、精子提供を選ぶ場合にも、「妊娠できるか」だけで決めるものではありません。
夫婦の気持ち。ドナーについて。生まれてくる子どもについて。子どもの出自について。将来どのように伝えるのか。そこまで含めて考える必要があります。
無精子症と精子提供について、よくあるご相談
無精子症でも子どもを持つことはできますか?
無精子症には原因や状態の違いがあります。精液中に精子が確認できなくても、状態によっては精巣から精子を採取する方法などが検討される場合があります。まずは男性不妊を扱う専門の医療機関で詳しい検査を受けてください。
TESE・micro-TESEで精子が見つからなかったらどうなりますか?
ご自身の精子による妊娠が難しい場合には、その後の選択肢について夫婦で考えることになります。第三者からの精子提供も選択肢の一つですが、医学的な判断については必ず担当医へご相談ください。
夫が精子提供を受け入れられません
無理に結論を出す必要はありません。「血がつながっていない」「自分は父親になれるのか」「子どもを本当に愛せるのか」という葛藤を抱える方もいらっしゃいます。夫婦どちらか一方だけで決めず、時間をかけて話し合うことが大切です。
精子ドナーには希望条件を出せますか?
年齢、血液型、身長、体格、学歴、職業、活動地域など、ドナーに希望される条件はご相談いただけます。ただし、すべての条件を満たすドナーが常時いるとは限りません。そのため、「絶対に譲れない条件」「できれば希望したい条件」を整理しながら検討していくことが重要です。なお、指定できる条件はご利用のプランによって異なります。詳しくは料金についてをご覧ください。登録しているドナーのプロフィールはドナー一覧からご確認いただけます。
まだ精子提供を決めていなくても相談できますか?
はい。精子提供を受けると決める前の段階でもご相談いただけます。「無精子症と診断されたばかり」「現在治療中」「micro-TESEを検討している」「夫婦で精子提供について話し始めた」「夫がまだ受け入れられていない」という段階でも構いません。
まだ、精子提供を決めなくて大丈夫です
無精子症と診断されたばかり。まだ治療中。夫が精子提供を受け入れられていない。そんな段階でも構いません。
「もし夫の精子が見つからなかったら、私たちにはどんな選択肢があるのか」
それを知ってから、夫婦で考えてください。
ロジカル精子バンクでは、精子提供を受けると決める前のご相談もお受けしています。
ドナーについて知りたい。費用を知りたい。希望する条件で探せるのか知りたい。その段階からでも構いません。
まずは、ご夫婦の現在の状況をお聞かせください。ご利用の流れやお問い合わせもあわせてご覧ください。
なお、当バンクは医療機関ではありません。診断・治療は行っておりませんので、医学的なご判断は医療機関にご相談ください。
